今回の歴史が行き歴史を知る、エピソードFは来年からNHKの開局記念特別ドラマスペシャルで4年の撮影時間を掛けて
放送されることになった、司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」の主役、秋山兄弟の故郷「愛媛県・松山市」をご紹介したい
と思います。
 筆者の話で申し訳ありませんが、私は人に歴史上の時代の中でどの時代が好きですか?と問われると「明治時代」が
一番好きだと答えます。たいていの人たちはドラマ等の影響もあり、戦国時代や幕末の時代が一番好きだという方が
多いと思います。明治というと戦争(日清、日露など)の影響もあり、多くの方々はどちらかというと暗いイメージを
持たれている方々が多いと思います。しかし筆者は、この時代に生きた日本人ほど、懸命に生き、政治、軍事に関して
国民一人、一人が関心を持っていた時代はなかったと思います。確かに生活は苦しかったと思います。幕末の徳川幕府が
各地の港を諸外国に開港し、外国人に対して治外法権を与え、外国から輸入される商品については税金がありませんでした
ので、正直、諸外国に対してやられたい放題の状態でした。明治新政府はこれらの負の遺産を受け継ぎ、政治・経済など
全てマイナスからのスタートの船出でした。当然ながら、これらのマイナスは庶民の税金から賄われるわけです。
でも私は多くの書物を読んでいて思った事はそれでもこの時代の人々に昭和初期の軍人が幅を利かせていた時代のような
暗さが感じられないのです。それは一体何故なのでしょうか?明治という時代はいわゆる徳川幕府の一党独裁政権が終わり、
庶民が主役の時代になりました。表の部分では勝者の薩長の連中が幅を利かせて多くの重要ポストを押さえ、権力を
独り占めするという部分もなきにしもあらずでしたが、根本的な部分の日本の官僚機構や陸軍・海軍という日本の今後の
重要な位置を占める部分については実力社会の世の中となりました。徳川時代は士農工商の世の中が物語るとおり、
大名や旗本の子に生まれればどんなにぼんくらでも親から与えられた同じ地位に就く事が出来たのです。それに引換え
明治時代は官僚や高級軍人になるのは試験に通らなければその地位につけない実力社会の世の中になったのです。
この事は一般庶民でも勉学が優秀であれば国を動かす地位に就く事が出来る事を意味しました。この時代背景は特に
幕末に徳川幕府側に加担し、薩長新政府から疎まれた、出身藩の者には強い影響を与えたといえます。今回の主人公の
秋山兄弟も徳川方に加担した、伊予・松山藩の出身でした。後に日本陸軍騎兵創設の父と呼ばれる秋山好古は松山藩の
下級武士の出身でしたので、幼少の頃、自分の松山藩が徳川方に加担したことにより、松山城を薩長側の土佐藩に
占領されるという経験をしております。当然ながら松山の街も土佐藩の兵隊達に占領され、自分の生まれた街を
我が物顔で歩く、兵隊を見なければならないという屈辱を経験しております。好古は晩年、自分の人生の中で
一番屈辱であった経験はこの幼少時の体験だったと言っております。このように敗戦の憂き目を見た出身藩の者にとっては、
次の世の中でどのように生きていかなければならないか?と考えた時に勉学で薩長側の者達に勝たなければならないと
考えたのです。それとともに藩政治時代のように武士であれば俸禄金が貰えるという時代ではなくなりましたので、
生きていく(飯を食べていく)ためには仕事をしなければなりません。特に秋山家は兄弟が多かったため、好古は武士出身という
プライドを捨てて、近所の風呂屋で働き少しでも家計の足しになるようにと家族のために懸命に働いております。
そのような苦難の時に弟の真之は誕生するのです。(1868年、徳川幕府が崩壊した年に誕生)俸禄金もなく
厳しい時に真之は誕生しましたので、家族は初め、生活が苦しい為、真之を近くのお寺に入れようと提案します。
しかし好古はこの事を一人強硬に反対したとの事です。「赤ん坊を寺に入れてはいけんぞな、おっつけうちが勉強してな、
バイト活動に励み、大阪で教員の先生の募集をしているという情報を聞きつけ、松山を後にし、大阪に赴くのです。
(好古17歳時)その後、教員試験(当時17歳では試験を受ける事が出来なかったが年齢を偽り合格する、
それだけ優秀だったという事だったのでしょう)に合格し、大阪、名古屋の師範学校の教員を務めあげます。
そして東京にお金の掛からない軍人の学校(後の陸軍士官学校)が出来るという情報を知り、何も深く考えず、
ただ生活が楽になりたいという一心で陸軍士官学校を受け無事合格(陸士三期生)します。そしてここから好古の
東京及び軍人生活が始まるのです。
 一方、その時、弟の真之は愛媛で親友とともに当時の世間の中で大変流行していた、自由民権運動などを初めとした
政治活動にのめり込み、松山第一中学の仲間たちと楽しい学生生活を送っておりました。(学費は好古が仕送りして
くれていた。このようなことがあり、海軍でもどちらかというと天才肌で生意気扱いされていた真之も生涯、兄好古には
頭が上がらなかったとの事です。)明治の初めで時代がどんどん変わりゆく中で真之は将来太政大臣(当時の青年たちは
太政大臣の位が日本で一番高い地位だと思っていた。)になりたいという夢を持ち、勉学に励みます。非常に天才肌で
何をやらせてもそつのない人間だったようです。その勉学中、後に二人は別々の世界を歩むことになりますが、生涯の友に
出会います。その当時、正岡升(のぼる)と名乗っていた、後に俳諧に革命を起こす正岡子規です。二人は東京で
一旗上げ、太政大臣になるという野望を秘め、東京の大学予備門(後の東京大学教養学部)に入学します。ここは
東京帝国大学に入学を目指す全国から将来の野望を持った優秀な学生が集まり、後の日本の頭脳が全て詰まっておるような
学校でした。(彼らの同窓生には夏目漱石など優秀な学生が多数いました。)その中で二人は文学という世界に
のめり込んでいきます。当時の学生は政治家、官僚、哲学者など日本の先駆者を目指す者が多く、文学の世界は
どちらかというと当時は馬鹿にされる意向にあったようです。真之にとって子規との文学の生活は楽しく、互いに
この世界の先駆者になり、この文学の世界を極めようと誓いあいますが、真之は困難な問題を抱えていました。
いうまでもなくお金です。大学予備門の授業料は全て兄、好古が払ってくれていましたが、好古事態も陸軍士官学校を
卒業したばかりで高い給料を貰っている訳ではありませんでした。この事は真之にとって最大の悩みとなっていきます。
兄好古と同じように真之もお金が掛からない学校があるという事を知ります。(海軍兵学校)緻密な性格の自分にとって、
緻密な戦略が重要視される海軍という世界は自分に向いているのではないかと思い、海軍兵学校の入学を決意します。
真之の中で文学の世界を極めようと誓いあった子規とのこの別れが生涯でも本人にとって辛い出来事であったようです。
真之はその後、海軍兵学校を主席で卒業します。
 その後二人は日露戦争時までに、好古はフランス、ロシアなどの海外留学を重ね、日本陸軍騎兵設立者として順調に
軍歴を重ね、真之も海軍首脳より天才の名を欲しいままにし、日露戦争時、少佐の地位で連合艦隊司令長官
東郷平八郎の下で参謀として抜擢されます。 日露戦争は明治日本国民が一体となった総力戦争でした。国民一人、一人が
ロシアの圧力に日々恐れ、幕末の外敵の来襲を経験した国民にとってロシアに敗れたら、せっかくここまで築きあげてきた
明治という日本国家が一発で滅んでしまうという常にきわどい中での選択の戦争だったのです。国民自身も日々の多大な
税金などに苦しんでおりましたが、皆で坂の上の雲にあるような国と戦うため、この国を守るためには、一人一人が
頑張らなければならないといけないという明治国民の意思統一が出来ていた戦争でした。現に伊藤博文などは、
日露の戦争の決定した時、国民と敗戦した後の事を思い、御前会議で涙にくれたとの事です。それだけ政治家も軍人も
真剣に国を思い、ロシアの圧力からこの明治国家を守るために、あらゆる方法を尽くしてこの戦争という方法を選択した
のです。秋山兄弟もその国民の中の一人でした。好古時代は元々教員で本当は軍人というより教育者の方が向いていた
のかもしれません。真之も元々文学青年であり、本当であれば夏目漱石のように小説家になっていたのかもしれません。
兄弟二人ともお金と生活という問題が有り、心ならずも軍人という道を選びました。しかしいったんその仕事を選択すれば、
その組織の中で最大のベストを尽くし、国を守る・・この兄弟を見ていると明治日本人の悲哀さとともに明治日本人の
強さを感じるような気がします。そして日露戦争において、好古はロシア最強のコサック部隊(総勢10万)をわずか
8千の部隊で守りきるという日露戦争最大の危機と言われた「黒溝台の会戦」を勝利に導きます。真之も連合艦隊参謀
として作戦関係を一手に引き受け、当時世界最強と言われていたバルチック艦隊を撃破します。大国に対して全ての戦い
が本当にきわどい勝利でした。そして明治日本人がやはり昭和の軍人と違った事は引き際を常に考えていた事でした。
7(日側)対3(露側)までの勝負まで来た時に直ぐにアメリカに仲介を頼み、和平の道を導く努力を開始します。
それはこれ以上の戦いは戦費的にも、国の体力的にも無理だと直ぐに判断する事が出来たからです。ぎりぎりの本当に
ぎりぎりぎりの所できわどい戦いを明治日本人たちは勝利に導いたのです。(しかしこの厳しい戦いの教訓を何も
学ばなかった後の昭和の軍人達は何も考えず、その後太平洋戦争という大掛かりな戦争を起こし、国民を不幸に導きます。)
その後好古は陸軍大将まで勤めあげた後、長年の夢であった教育者として、故郷松山の北予中学校の校長に就任し、
教育活動を行っておきます。自分の子供たちも軍人にする事はなく、自分の教育者としての憧れであった福沢諭吉の
慶応義塾に入学をさせたとの事です。
 真之は元が軍人向きではなかったのでしょう、日露戦争で多くの人が死んでいく光景を目のあたりにし、人の生死に
ついて考えるようになり、宗教活動にのめり込んでいくようになります。その後海軍中将まで勤めあげますが、
日露戦争時が真之の生涯のピークだったのかもしれません。
 二人にいえる事は、軍人は軍人として与えられた中で最大限のベストを尽くし、政治の世界は政治家に任せるという事です。
昭和の軍人はこの掟を破り、政治の世界にまで口を挟むようになり、権力を握り、そして国民をあのような悲惨な戦争に
導いていったのです。明治の軍人はまず国と国民を守るという事が全てにおいて優先されました。昭和の軍人は赤紙一枚で
一般国民を兵隊として召集し、平気で一般国民に対して死をしいたのです。
 明治時代、国民は坂の上の雲を掴む為、必死で戦いぬきました。当時の政治家も軍人も国を守るため、必死で坂を
登ろうとしたのです。筆者はこの時代の日本人は本当に凄いと思っております。そしてまた終戦記念日が近ずいてきます。
その度に今の日本の政治家、太平洋戦争を起こした軍人の思考能力について考えます。国民の事を第一に考えていれば、
今のような政治や昭和初期の狂った軍部の暴走は考えられなかったような気がします。もう一度明治の政治家や軍人達に学び、
国と国民を守るという崇高な思いについて、国民一人、一人が考えてみる時が来ているのかもしれません。

● 関連施設
秋山兄弟生誕地 
松山市歩行町(伊予鉄市内電車大街道電停徒歩2分)
松山城
 松山市丸之内(松山市電大街道電停徒歩10分)



                        (エピソード8に続く)

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