今回の歴史が行き歴史を知る、エピソードEは、福岡市の今の天神周辺にて生まれ、戦前の政界に
おいて、首相、外相として戦争回避の努力をしたにも関わらず、敗戦後の戦勝国主導の東京裁判にて、
文官として唯一絞首刑という運命を辿らざるをえなかった広田弘毅の強くもあり、悲しくもある生涯に
ついてご紹介したいと思います。
 毎年、終戦記念日の8月15日になると報道関係では、靖国神社に眠るA級戦犯の問題がクローズアップ
されます。A級戦犯、即ち、日本が行った太平洋戦争において、戦争に関わる根本的な責任をA級という
最大限な表現において、もっとも重い罪を取らされた人たちです。A級戦犯の中でも東京裁判において、
さらにもっとも重い刑、絞首刑に処せられた人たちは7名います。
軍人:東條英機、木村兵太郎、板垣征四郎、武藤章、土肥原賢二、松井石根
文官:広田弘毅
以上の面々です。見て頂いてお分かりの通り、広田は絞首刑の罪を取らされた面々の中で唯一の
文官です。軍人が天皇の名のもとに強引に国民を戦争という渦中に突き進ませ、多くの国民を
路頭に迷わせるような悲劇を起こしました。この戦争において主導的な役割をになった軍人が
処罰されるのは当然でしょう。しかし文官であり、尚且つ、戦争回避の努力をしていた一文官が
何故絞首刑の罪を背負わなければならなかったのでしょうか?
 広田は現在の福岡市中央区天神3丁目にて生を受けます。実家は石材店を営み、父徳平は
優秀な石工であったとの事です。広田に勉学という能力がなければ、普通の石工として平和な
一生を過ごしていたのかもしれません。かれはとびきりの秀才という事ではなかったようですが、
福岡の名門校修猷館→第一高等学校→東京帝国大学法学部→外務省(同期は後の首相の
吉田茂)と自身の努力にて人生を切り開いていきます。外務省入省後(明治40年)は清国(現在の
中国)公使館付外交官補の北京駐在を皮切りにロンドン勤務、本省通商局第一課長にて第一次
世界大戦後の中国大陸問題の処理、ワシントン勤務、本省情報部課長、次長を経て第二次山本
権兵衛政権下においては欧州局長、その後の加藤高明内閣では世界との協調路線を重んじる
外相幣原喜重郎の下で日露戦争以来国交のなかったソビエト(現ロシア)と「日ソ基本条約」を
締結に尽力し、樹立させる影の功労者となります。決して他の同期のメンバーより出世が早かった
訳ではありませんが、コツコツ努力をする広田らしく、省内でも一目置かれる存在となっていきます。
しかし時代が昭和になる
と、(につれ、)混迷の時代へと突入していきます。中国東北部での満州事変の勃発により、
中国大陸において陸軍(中国大陸の日本軍は関東軍という名称でした)の暴走が顕著になって
いくのです。その後も関東軍は独走し続け、中国東北部において関東軍の指導下による満州国の
設立、本土においては犬養首相の暗殺(五・一五事件)が海軍将校によって行われ、混迷は益々
深まっていきます。時代はまさに戦争に向けて一直線に向かって行くのでした。広田が外務大臣に
就任したのは、このような厳しい時代背景のさなかでした。斉藤実政権下において外相広田は
これ以上の軍部の暴走を必死に抑えようと中国との戦争に突き進もうとする陸軍大臣荒木貞夫を
必死で押さえ込み、満州国設立により対立が深まっていたソビエトと東支鉄道の買収問題に時間を
掛けながら交渉し締結に導き、そして1935年の議会において協和外交に基ずき「私の在任中に
戦争は絶対ないと確信しているものである」と訴え、この事により一時は中国との関係も好転に
向かい始めました。しかしこのような広田の努力もむなしく中国大陸の関東軍は再度暴走を開始
します。中国北東部や天津などにおいて大小のトラブルを繰り返し、中国側の信頼を失墜させて
いくのです。広田は「広田の対華三原則」などを出し、軍部の暴走を止めるように努力しますが、
時代の流れを逆方向に転換するのは難しい事でした。1936年2月26日の後のニ・ニ六事件と
呼ばれる事件において、斉藤内大臣、高橋蔵相をはじめとする閣僚が陸軍の青年将校などにより
暗殺されるに至ります。この事件は天皇の命により鎮圧されることになりますが、当時の日本の
不況の時代背景(東北の大飢饉など)もあり、益々軍国主義の世の中に日本が突き進み、
戦争への坂道を転げ出し、ブレーキを止めるのが難しい状況となっておりました。そんななか当時の
岡田内閣は下野し、重臣達の推薦により平和主義者の広田に組閣の大命が下ります。しかし
当初広田はこの大命を頑として断り続けました。その後、当時最大の実力者最後の元老、西園寺公望
や外務省同期の吉田茂などの説得により、この難しい時代の内閣総理大臣を拝命する決意をします。
そして早速組閣に着手しますが、平和主義者を邪魔な存在として、早速陸軍の横槍が入ります。
当時陸軍からは陸軍大臣のポストがありましたが、このポストは陸軍からの推薦した人物を
出すことになっており、総理大臣自らが任命出来るポストではありませんでした。(陸軍のポストの
統帥権は軍隊のトップの元帥、すなわち天皇陛下しか出来ないという軍部の大日本帝国憲法の
解釈による)即ち陸軍大臣が任命出来なければ組閣が出来ないという原則を巧妙に使い、広田に
圧力を掛けます。広田は同郷で当時陸軍の参謀次長を勤めていた杉山元などの人脈を使い、
何とか組閣こぎつけます。正式に首相就任後も陸軍と対立しながらも軍縮や平和外交(特に
中国及びソビエトとの協調外交)に勤め、何とか軍国主義に転げ落ちそうになる日本を寸前の
ところでもちこたえさせていきます。しかし軍部と議会の対立は年を追うごとに深まっていき、
1937年1月の第70議会にて、政友会の浜田国松代議士が軍部を批判する演説を大々的に
行い(切腹問答事件)政党と軍部の対立が頂点に達します。この事件により国会を解散しろと
軍部からの要求が強硬になり、広田としては国会解散により政治の停滞をつくる訳にはいかない
という考えから解散ではなく、内閣総辞職という結論に達します。陸軍に対しては、粛軍や予算等の
調整の換わりに軍が要求した軍部大臣現役武官制(大臣は現役の軍人にしかなれない。
しかしこの制度の復活を認めた事が後の東京裁判において非常に不利な状況になろうとは
知る由もなかった。)の復活など軍部をいなしながら対応をしましたが、結局は志半ばにして
軍部の圧力に屈したかたちとなってしまいました。
 総理を辞職した広田は神奈川の江ノ島に近い鵠沼にて隠遁生活を送ります。この頃の広田は
政治には無縁で知人等には「もし出来ることであれば田舎で学校の先生がしたい、それも駄目で
あれば習字でも教えて生活したい」と言っていたとの事です。しかし時代は広田を休ませては
くれませんでした。広田内閣後、組閣の大命を受けた宇垣一成(元陸軍大将)は広田政権下と
同じように陸軍が大臣を出さず組閣前に崩壊。その後の陸軍からの推薦にて陸軍大将の
林洗十郎が組閣しますが、「なにも洗十郎」、「食い逃げ内閣」など世間から散々の不人気で
崩壊します。そして当時の大衆の人気が高かった名門公家の出の近衛文麿が内閣総理大臣に
就任します。軍部の力によって戦争の道に真っ直ぐに突き進んでいきそうな世間情勢及び
外交処理問題を解決するには広田しかいないという重臣達の勧めで広田は再度、外務大臣に
就任します。しかし陸軍の暴走は再度繰り広げられます。しかもこの暴動はこの先、多くの
日本人の命を落とす大規模な大戦に雪崩れ込んでいきます。盧溝橋事件です。1937年中国
東北部の関東軍が盧溝橋での発砲をきっかけに大規模な軍事攻撃に出ます。日本の外務省や
内閣はすぐに「事変の不拡大と早急な現地決着」という指示を出し、これ以上事変が拡大しない
ように努めますが陸軍の暴走は止まらず、事変は中国全土に拡大して行き、悲惨な日中全面戦争
に突き進んで行きます。広田は東京の陸軍が事変の収束の為、直ぐに軍隊を中国大陸に派遣
したいという申し出に対しても、これ以上の事変の拡大を防ぐために反対にまわるなど懸命に
日本陸軍の暴走の時計を元に戻すように試みますが、すでに発火してしまった弾薬庫を一人の
力で戻すには限界がありました。その後も懸命に中国側と停戦協定を結ぶように試みますが、
陸軍の暴走は広がるばかり(事変は拡大し、南京事件に突入など)で軍隊は中国全土に進軍ラッパ
を鳴らし、突き進んで行きました。広田にとってはまさに大日本帝国の崩壊の序曲に見えたかも
しれません。そして内閣の改造があり、新外務大臣には陸軍出身の宇垣一成が就任します。
その後の広田は内閣参議に就任し、院内では無所属倶楽部に所属。太平洋戦争期間中も
東條内閣と対立し、戦争の早期解決に尽力します。戦争の体勢が既に決しつつあった1945年
6月に箱根の強羅にて駐日ソ連大使などに和平の交渉などをしますが、その頃既にソ連は
対日参戦を決めておりましたので、広田の和平の願いが叶う事はありませんでした。そして
日本は広島・長崎の原子爆弾投下など本土においても大きな犠牲を出し、ポツダム宣言を
受諾するに至ります。
 終戦とともに次に始まったのはアメリカを中心とした連合軍の戦時下において戦争を指導した
者達を処罰する裁判を実行するため、当時の軍部・政治家など多くの者たちがGHQにより逮捕
されました。広田も当時の外務大臣を務めた人間ですので、GHQにより連行されますが、周りの
者たちは上記のように広田が戦争を回避する為、尽力してきた過程を知っておりますので、
直ぐに釈放されるだろうと楽観していたようです。しかし広田だけは妻静子に対して「大きな
気持ちで行ってくる。ただあまり楽観しないほうがいい」と既にこの後の自分の運命を悟って
いたようです。検察官側は広田に対して日中戦争を拡大させ、事変を止めさせる事をしなかった
など当時の日本の政治情勢を無視し、広田に戦争責任をかぶせてくるのでした。検察側も
軍人だけでなく、文官からも罪を背負う者を出さなければ世界に示しがつかないということもあり、
その代表が総理大臣、外務大臣を経験している広田に的が絞られたのだと思われます。
(本来文官の中で一番罪が重いと予想されていた近衛文麿はGHQから指名手配をされた際に
服毒自殺を遂げている)しかし広田は検察官の厳しい質問等に対しても「自ら計らわぬ」の
精神から、黙秘を貫きます。自分が喋る一言、一言が自分を含め、多くの人間の生死を
左右する・・人間しゃべれば自己弁護が入り、他の者の悪口を言わなければならない。他の
広田とともに逮捕された戦犯達が必死に自己弁護をしているなかで広田のこの姿勢は異質
でした。広田は終始、戦争を止められなかった事に対しては自分に非があると言い、他の事に
関しては、私はわからないと言っていたようです。本来であれば再三再四自分を苦しめた陸軍の
者に対して多くの言いたい事があったでしょう。そして自分を苦しめた者たちと、同じ牢屋の中に
入れられることは、どのような気持ちであったのでしょうか。そして広田のこの姿勢を知った他の
戦犯達から「このままではあなたは死刑になってしまう。本当の事を話すべきだ」と忠告も
されますが、広田は頑としてこの姿勢を改める事はありませんでした。そして東京裁判が
始まりますが広田は裁判での答弁を拒否します。このような広田の強い意志を知った妻静子は
夫の生に対しての未練を少しでも軽くしてあげたいという気持ちから自殺を遂げます。先に
待っているという気持ちを広田に伝えたかったのだと思われます。妻の死を知った広田は、
もともと生に対する執着心はありませんでしたが、この事で少しでも早く妻のところに行きたい
という気持ちだったのではないでしょうか。広田が家族宛に出す手紙は静子が亡くなってからも、
全て妻静子宛になっていたとの事です。
 その後も広田は裁判において一切の答弁はしませんでした。この事は自分の生死に関して
圧倒的な不利を意味し、広田自身は全ての覚悟をしていたのでしょう。判決の朝の息子、
政雄との面会(に)にも、政雄の「万一死刑になるとしたら父さん覚悟は出来ているのでしょうね」
という質問に対し、広田は「もちろんだ」と答えたとの事です。故・城山三郎氏の「落日燃ゆ」
の中でこの時の会話が掲載されておりますのでそのまま引用させて頂きます。

政雄「おじいちゃん、おばあちゃん、それにママ、忠雄兄さんも待っているんだからさびしくは
    ありませんよね」
広田「そう、そのとおりだ」「お前心配しているのか?」
政雄「少しばかりはね」
広田「ばかな奴だ。それに俺は柔道で首を絞められて、よく死ぬ手前までいったもんだが、
    絞められて死ぬというのはなかなか気分がいいものなんだよ」
政雄「階段を十三段登って行って、その上に立つとがたんと板が落ちて、それでおしまいだそうですよ」
広田「わかっている」
政雄「階段を滑り落ちないように登って下さい。」
広田「よし、よし」

上記のように広田自身、家族ともに既に覚悟は出来ていたのだと思われます。そして判決
は当時の責任担当者として戦争を止める事が出来なかった(と)ことの罪を問われ「絞首刑」
となりました。そして死刑の日が近くなってくるなかで、死刑員の中でも死への恐怖から
精神が病むものが出てくる中で、死への覚悟が出来ている広田はうろたえる事も無く処刑
の日をただ待っていたとの事です。GHQから7人の死刑員に対して、少しでも精神を和ら
げようと派遣された仏教学者の花山信勝の面談に対しても広田は花山の亡くなる前に何か
時世の句など残すものはないかとの問いに対して、「公の人として仕事をして以来、自分の
やったことが残っているから、いまさら別に申し加えることはないと思う」それでも食い
下がる花山に対して広田は「すべては無に帰して、いうべきことは言って、つとめはたす
という意味で自分はきたから、今更何もいうことは事実ない、自然に生きて、自然に死ぬ」
そのように言ったといわれております。そして広田はこれ以上何も言うこともなく処刑の
日もとくに何も申すことはなく処刑台の露と消えたとの事です。
昨今、どうしてこのような戦争を日本が起こしてしまったのか?という問題が問われる
ことがあります。戦争責任問題は多くのマスコミが今でも終戦記念日が近くなる度に問われ
ますが、戦争を回避しようとした人々の努力の話は少ないような気がします。この事を後世の
人々に伝える事も現代に生きる私達の責任でないでしょうか?

●「広田弘毅に関する関連施設」
※ 広田弘毅生誕地碑(福岡市中央区天神3-16-10)
※ 広田弘毅銅像(福岡市中央区、福岡市美術館前)
※ 水鏡天満宮(福岡市中央区天神、鳥居の額の文字は小学生の時、広田が書いた書物)

                                    (エピソード7に続く

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