今日は岩手県の盛岡市をご案内致します。
突然ですが、日本で一番多くの総理大臣を出している県は何処でしょうか?という質問に対して、
少し政治や歴史に詳しい方であれば山口県、長州という答えがたいていはでてくると思います。
では日本で二番目に多くの総理大臣を出している質問には、どれくらいの方が答える事が出来る
でしょうか?答えは意外?かもしれませんが、岩手県です。岩手県は幕末の維新時には幕府側につき
薩長新政府と敵対する関係にありました。その敗戦藩の岩手県(南部藩)がどうして、このような
逆境から多くの人材を輩出する事が出来たのでしょうか?
今回はその秘密に迫りたいと思います。東北の全体に言える事ですが、幕末当時の南部藩は
天明の大飢饉以来の影響により、藩の財政は切迫し、それとともに当時の南部藩の放漫財政により
藩経営は非常に厳しい状況でした。それとともにこのような状況に農民達が立ち上がり一揆も起き、
まさにダブルパンチの状況でした。東北の大藩、仙台藩の取り成しにより、一揆は収める事が
出来ましたが、仙台藩に藩財政の改革を迫られ、南部藩は当時の年齢及び上下関係では考えられない
事ですが、19歳の東中務、22歳の楢山佐渡という若い二人を抜擢し藩の財政改革を進めて行きます。
しかし時代は南部藩が考えている以上のスピードで進んでいきます。幕末の暗雲、幕府側に付くか、
薩長側に付くかという選択を南部藩も迫られる事となります。この判断を南部藩は当時京都にて
政治情勢を洞察していた、22歳の青年家老の楢山佐渡の決断に任せる事となります。楢山は京都にて
西郷隆盛、桂小五郎などにも会ったとの事ですが、彼自身には、このような成り上がり者達に新らしい
時代を任せていいものか?という結論に達したようです。もちろん、この時東北の多くの藩が会津藩や
仙台藩を中心とした、奥羽越列藩同盟に加盟しており、自分たちだけ加盟しなければ、袋のねずみになる
可能性が有り、多くの状況から幕府側に付くという結論に達したとも思われます。
その後、東北の地に薩長の怒涛の軍隊が攻めて参ります。南部藩も同盟を裏切った、久保田藩(秋田)の
制圧のために交戦などを行いますが、同盟を組んでいた、仙台、会津藩などの降伏により、既に対極は
明らかとなり、南部藩も謝罪状を差し出して降伏するかたちとなりました。
敗戦の後、薩長側により東京に連行された青年家老楢山佐渡は責任を一身に背負い、「首謀者は私一人、
他の者に責任は無い」と斬首の刑を受ける事になりました。しかしその後、楢山とともに当時家老に
抜擢されていた東中務の尽力により(この当時東中は薩長側に付くべきだという意見により楢山と意見が
対立していた・・、意見が対立していた故、同じ青年家老として苦労した者同士、楢山の死に対し、
感じるものがあったと思われます)故郷の盛岡市内の報恩寺にて武士らしく切腹にて死ぬ事が出来た
との事です。明治に入り、盛岡城(不来方城)は取り壊されましたが、石川啄木の「不来方の
お城の草に寝ころひて空に吸われし十五の心」の有名な文があるように、今でも盛岡人の心のよりどころ
となっております。
そして城内にもう一つ有名な歌碑としては5千円の似顔絵で有名なの新渡戸稲造(南部藩出身)の
「願わくは、われ太平洋の橋とならん」の碑も建てられております。明治後の岩手県は会津同様、
敗戦国として、厳しい制裁を受けていきます。「白河以北、一山百文」という侮蔑的な言葉もこの時、
薩長新政府により言わた言葉です。盛岡人はこのような厳しい状況の中から、世に出るのは、勉学にて
世に出ていくしかないと考え、苦労をして官僚になった人間が多いようです。
最初の話でありませんが、総理大臣は原敬、斉藤実、米内光政、鈴木善行と4人の総理大臣を輩出して
おります。(靖国問題で現在、話題となっておる東城英機の父、軍人東城英教も南部藩出身です。)中でも
原敬は南部藩の家老の子として生まれ、維新当時14歳で盛岡市内に乗り込んで来た、官軍の横暴や
敗戦のみじめさを経験しており、幼いながらに、この時期の経験がその後の政治活動の原点になり必ず
敗れた者が報われる世の中にすると誓ったとの事です。彼の号は「一山」と言い、この名称は「白河以北、
一山百文」から取ったと言われています。その後、政界のトップに立ち、薩長政府
から官位を贈ると言われても原は受けず、固辞し続けた事から、一般大衆から「平民宰相」と呼ばれました。
原は戊辰戦争殉難者50周年祭の挨拶の際に「この戦争は単に政見の違いの結果であって、勝てば官軍、
負ければ賊軍というふうに勝者が敗者を裁く理屈は成り立たない」と述べて、50年経った現在も敗戦の
憂き目に苦しむ東北人達に勇気を与えたとの事です。その後も原は自分の身分を旧藩の一人として
表現しており、自分の故郷及び幼い頃に敗戦というかたちで、染み付いた反骨精神を生涯忘れる事が
ありませんでした。この原の精神が多くの者に受け継がれ、その後も政財軍界に多くの人材を送り出した
のかもしれません。現在も岩手を地盤にしている政治家と言えば、民主党党首の小沢一郎氏がいます。

●盛岡城への行き方
 JR盛岡駅より徒歩15分

                        (エピソード5に続く

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