今回は、新潟県、長岡市の歴史エピソードをご案内します。坂本竜馬や西郷隆盛のように
日本の歴史史上において一般にはあまり知られておりませんが、幕末の一時、壮大なる
構想を持った人物がいました。
太平洋戦争時の連合艦隊最高司令長官で最後まで対米戦争に反対した事で知られる
元帥山本五十六(新潟県長岡市出身)が対英米関係が切迫している時に行われた海軍軍縮会議に
日本全権代表団として参加する際に「自分は同郷の長岡の先輩、河井継之助のあの小千谷談判の
精神にて今度の会議に臨み、使命を全うするつもりである。」今回は山本五十六元帥が尊敬した人物、
河井継之助のエピソードをご紹介します。

長岡は徳川普代の大名で、10万石にも満たない、地方都市のどこにでもあるような藩でした。継之助は
この小さな地方都市の代々の家老の子として生を受けます。将来は長岡藩を支えなければならない身分
ですので江戸に出て遊学などをしていたようですが、勉強より興味を持ったのが、吉原や品川などにて
遊女遊びばかり行っていたようです。ただし、置屋には独特の経済システムがあるため、継之助には
勉強になったようです。遊女などから世間がどのようになっているか?徳川の評判、そして置屋には
薩長の武士達も出入りしていたため、世間の情勢や世相などを知る事が出来たようです。
このような体験は後々の彼の中立構想にも大きな影響を与えたようです。
江戸での遊学は彼自身にってはあまり身になる事がなかったようです。その後、彼に人生の師が現れます。
彼は其の人物の評判を聞いて備中松山(現:岡山県)に向かいます。継之助は元々、現実的な考えを
実践とする「陽明学」に深く傾倒をしておりました。継之助の人生の師匠となり、後に松山藩の新井白石と
呼ばれる山田方谷との出会いです。
山田方谷も陽明学を学問の基本として、当時は参勤交代時でも「貧乏松山が通る」と言われた、この貧しい藩を
質素倹約と農業の抜本的改革、産業の改革などで藩政を改革しました。この当時、方谷は山深い谷にて
農民達とともに農地を開いており、常に自給自足が出来るように藩の財政改革を行っておりました。
継之助はこの地にて農民とともに自給自足生活を送り、農民達に学問を教える山田方谷に深い感銘を
受けます。このように自分自身にて食料、経済、政治を行っていかないと最後は大きな勢力の餌食と
なってしまう。そのためには農民達とも触れ合い、上下差別なく接していかなければならない・・

この方谷の教えは継之助の人生の原点となるのです。時代は徳川幕府の衰退、薩長勢力の台頭、
外国からは開国のため多くの商品が流入さりつつあり、経済も混乱していました。継之助は長岡は
徳川幕府にも薩長にも属しない、中立国を作り藩を活性化していかなければならないという、中立構想を
考えだします。継之助は備中松山を去る際に師匠方谷に次のような最大な賛辞?を送り長岡に戻っております。
「先生であれば三井の番頭も務まりますね」これは継之助が将来の日本は経済力を持っているものが
台頭をしていくという時代の先見性を継之助が持っていた事を表している一文だと思われます。
このような考えを当時持っていたのは継之助と坂本竜馬だけだと思われます。
長岡に戻った後の継之助は方谷からの教え通り、数々の藩政改革を実施していきます。しかし、時代の
風雲は長岡にも迫っているのでした。徳川幕府は薩長勢力の台頭に耐え切れず江戸城を開放。
徳川の譜代であり、同じ譜代同士の会津藩と関係が深い長岡藩に取って、徳川側に付くか、薩長に
屈するかは大きな悩みとなりました。藩論はどちらに付くか二分されこの当時、長岡藩は大混乱に
陥っていました。この当時、長岡藩の藩政に就任していた継之助は徳川に付くわけでもなく、
薩長に付く訳でもなく、第三の道を選択します。それはスイスのように永世中立国を目指す事でした。
大国の動向に左右されれず、独自に産業を興し、人民を豊かにする、そして自分たちで兵制を持ち、国を守る・・。
当時の日本でこのような壮大な構想を持っていた人物はいなかったと思われます。その実践を遂行するため、
継之助は江戸城開城の後の江戸長岡藩邸から去る際に、藩の歴史のある所有財産などを全て売り、その金で
兵器・弾薬を買い求め帰藩しております。その時手に入れた、ガトリング砲は当時の新政府軍(薩長勢力)すら
持っておらず、当時最新鋭の武器でした。また普通1万石あたり100人と言われていた藩士を1500人抱え、
尚且つ、最新鋭のミニール銃を全員に所有させておりました。継之助は中立を保つためには自らを守る武力と
経済基盤を確保しなければならないと考え、「1000石の者も100石の者も君に奉ずる事は首一つ」と
1000石以上の者は減禄、100石以下の者は増禄し、藩の財政バランスを保っていたのです。この考えは
武士の育ちでありながら、平等の精神を継之助が当時から持っていた事を表しております。しかしこの
継之助の壮大な思想も薩長には理解して貰えず、薩長を中心とする新政府軍の討伐軍は長岡のすぐ目の前の
小千谷まで迫っておりました。新政府軍の兵隊を差し出すようにとの要求も長岡藩は「我々はどちらの
勢力にも属さない中立な立場であります」と訴え、要求に応じませんでした。そこで継之助は新政府軍と
会談するために小千谷の慈眼寺に向かいました。
そこで継之助は軍監・岩村精一郎(土佐出身)に長岡は徳川軍にも新政府軍にも加担する気は無いので
どうか長岡を攻めるのは勘弁願いたいとの要求をしましたが、連戦連勝で天狗となっている若い岩村精一郎は
継之助を地方の田舎侍の戯言としか受け付けず、戦場でまみえようと高飛車に言い切って、継之助にこ馬鹿な
扱いをしたとの事です。それでも継之助は何としても戦争を避けなければいけないと思い、岩村の陣羽織りを
掴み、嘆願を試みましたが話を聞いてもらう事は出来ませんでした・・。その後も関係各藩に斡旋を試みましたが、
時代の流れにて薩長になびく各藩に断られました。全ては城下を戦場にしたくないという一身にて試みた事
でしたがこのような新政府軍の扱いに継之助も遂には戦を決意するしかない次第でした。新政府軍に
読まれる事のなかった文章にはこのように書かれておりました。「恐れながら奉り候、機重にもご赦免願い
奉り候、ひとり一領、一国のためのみにて申し上げ候にはこれなく、日本中協和力を合わせ、世界に
恥じ無きの強国に成しなされ候えば、天下の幸これに過ぎず、愚かなる誠意のほど、ご採用に相成り候えば
ありがたく存じ奉り候」文章は長岡のためでなく、日本国全ての力を合わせ、外国に負けないような強力な国を
作っていこうという現代の民主主義に繋がるような大きな思想の文章だったのです。
その後の新政府軍との長岡戦争は熾烈を極めました。最新の武力で揃えた長岡藩は戦争当初は数で勝る
新政府軍を再三再四、互角の戦いを繰り広げましたが、数の力には小国長岡藩はいかんともしがたく
遂には力尽きました。しかし戦争の間には一度新政府軍に奪われた長岡城を取り返すなど、早く長岡城を
落とし、会津に向かいたい新政府軍を一ヶ月も食い止めたのは継之助が軍人としても一流だった事を
評価される部分だと思われます。

長岡城落城後、継之助は同盟国、会津に向かう途中の只見村にて、戦の際に鉄砲に撃たれた
傷の影響にて43歳の生涯を閉じました。
時世の句は「八十里こしぬけ武士の越す峠」・・継之助が先端的な考えを持っていた事は彼が
ヨーロッパ人の語録から引いたという次の文章からも伺える事が出来ると思います。
「民は国の本、吏は民の雇」。継之助が既に民主主義の精神をこの時代に持っていた事が伺えます。
この継之助の精神は山本元帥を経由し、今も長岡の人々の心に多大なる影響を与えております。

●長岡城(悠久山公園)への行き方
 JR長岡駅よりバス10分

                        (エピソード4に続く


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