会津と言って何を思いうかべるでしょうか?白虎隊、会津磐梯山の民謡・・いろいろと有名なものがありますが
幕末、最後の会津の殿様だった人物を御存知でしょうか?その人物はあの有名な新撰組を京都守護職時代に囲った
松平容保です。彼は元々この土地の生まれでなく、養子としてこの土地に迎え入れられました。会津という土地は
祖先の藩主に安土・桃山時代の文武兼備の人、蒲生氏郷や「会津家訓」を作って強大な家臣団を形成した、保科正之
などがいます。おそらく容保が1ヶ月に及ぶ壮絶な会津戦争をとらざるをえなかったのも、これら多くの先人達による
主君を守る(この場合は自分たちの主従の徳川幕府)という会津の教え、「会津魂」を忠実に守らなければ祖先の先人
達に報いる事が出来ないという事が事実としてあったのだと思われます。

しかし本当に容保は不運の人でした。薩長同盟が成立(1867年)した後、幕府側と薩長側の京都での形成が逆転、
その後の鳥羽伏見の戦いの幕府側の敗北(1867年)、そして江戸の無血開城(同年)・・。これにより最後の将軍、
徳川慶喜は謹慎・蟄居します。慶喜の蟄居により薩長としては新しい世の中を人民に知らせるためにも新たなる首が
必要になったのです。それは京都守護職時代に新撰組を雇い、薩長にとっては多くの仲間を殺した、松平容保以外に
ありえませんでした・・。容保も慶喜には裏切られましたが、今更薩長に慶喜のように恭順の意思を示したとことろで、
薩長が会津を許してくれる訳ではなく、先代達の遺訓通り、既に戦う道しか残されておりませんでした。容保は戦う事は
吝かではありませんでしたが、1つだけどうしても納得出来ない事がありました。それは時の天皇、孝明天皇から貰った
礼状でした。新撰組など京都時代の容保にはダーティーなイメージがありますが、但し時の孝明天皇は非常に真面目な
性格の容保を非常に高く評価していたとの事です。(但し、孝明天皇はその後、謎の死を遂げます。現在では薩長派の公卿、
岩倉具視が毒殺したという説が有力です。)容保としても縁戚の徳川の事を思って京都での汚れ役を引き受けた
(現に時の容保の家老大野修理はこの京都守護職就任に最後まで反対しました。)という自負があり、天皇からも評価を
されていた。その自分が何故今このようにならなければならい・・と非常に複雑な思いだったのではないでしょうか・・。
このように容保は最後には壮絶な戦いを選ぶしか選択肢が無かったのです。

しかし時の流れは明白で、薩長の強大な勢力の前に、会津藩も会津魂を全面に押し出して勇猛果敢に戦いましたが、
いかんともしがたい戦いでした。その戦いの中で多くの悲劇が起きました。少年兵白虎隊の会津若松城が燃えていると
見間違え、壮絶な切腹事件、筆頭家老、西郷頼母家の集団自決事件(一族女性、子供合わせて12名による集団自決)
その他にも多くの悲惨な事件がありました。それでも家臣達は、先祖それぞれから教えを受けた、会津魂で壮絶に戦い、
そして散っていったのです。そして1968年9月22日、容保はついに降伏を決意し、薩長側に若松城を明け渡す事を
決意したのです。その時に降伏と書かれた白旗を大手門に掲示したのですが、城内には既に一枚の白布が無く
小さな布をつなぎ合わせた布だったとの事です。その後の容保は和歌山藩に幽閉されましたが、後に許され、晩年は
日光の東照宮の宮司となり、徳川家及び会津戦争にて死んだ多くの家臣達に祈りを捧げる生活を送り続けていたとの事です。

最後に晩年に容保が書いた文章を記載します。そこには自分の信念を時勢の流れとは言え、貫かざるをえなかった
悲運の人の気持ちがこもった文章のような気がします。
 「幾人の涙は石にそそぐともその名はよよに朽ちじぞと思ふ」(松平 容保) 

●会津若松(鶴賀城)への行き方
 JR会津駅より徒歩20分
●周辺の史跡
 西郷頼母屋敷跡
 飯盛山(白虎隊自決の地)
●周辺の施設
白虎隊記念館など

                        (エピソード3に続く


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